一生分の遺書

  • 最愛の人が失踪したこの地獄を遺す

    最愛の人が半年前に失踪しました。スマホと家の鍵と身分証を持たずに家出しました。彼の口座からは全額数百万円分のお金が引き出されていた。家出直前のパソコンの検索履歴には自殺に関する文言がたくさんありました。

    私はそういった当時の状況や彼と交わした言葉と過去の記憶、思いつく限りの手がかりを数え切れないほどに反芻して、答えが永遠に出ない質問に対して不毛な推測を延々と繰り返す。気が狂いそうになるほどに自分を問い詰める。彼は生きているのか。死んでいるのか。どうしてこんなことをしたのか。何を考えているのか。今もつらい思いをしていないだろうか。ちゃんとご飯を食べてお風呂に入っているのだろうか。暖かいところで寝ているだろうか。私のことが嫌になったのだろうか。失踪を選んだ自分を過剰に責めているのではいないか。知る由もないことをただ延々と繰り返す。臆病だから自ら死ぬことはできないと言葉にしていた彼なら、生きていてくれるのではないか。生きているのならいつ帰ってくるのだろうか。どんな理由で帰ってくるだろうか。金を使い切った時に帰ってくるだろうか。どうしてまだ帰っていないのか。私のことが心配じゃないのかな。死ぬのならいつ死ぬのだろうか。どんな理由で死ぬだろうか。一人で思い詰めて衝動的に望んでいない死を選んでしまったらどうしよう。もしくは行き先で事故で亡くなったりしないだろうか。見つけてあげられずに、彼は知らない人たちに囲まれた冷たい土の中に葬られるだろうか。延々と、延々と繰り返す。私は逃げている。私を苦しめる以外になんの役にも立たない質問の群れから必死に逃げている。少しでも長く生きるために必死に目をそらして頭をそらす。

    私が死ぬことで彼が健やかに生きられるのなら死んであげたい。四肢を取り上げられ、内蔵を売りさばかれても死に際に彼と一言交わして、顔を一目見られるのならきっといずれ頷く。私の死が彼を苦しめるならできないだろうが、もはやそんなこともわからない。どの道そんな都合のいいことはできない。この世に魂と引き換えにどんな取引も応じてくれる、やさしい悪魔は存在しない。ただ彼が生きている儚い可能性を捨てきれず、この生き地獄を耐えて耐えて耐えて耐えていくしかない。

    私は生きたい。生きたい理由がたくさんある。彼が生きて帰って来る可能性が少しでもあればいくらでも待ってあげたい。辛い思いを乗り越えて、生と向き合うことを決めた彼に妻の死体を突きつけたくない。彼のために強くなって、私のすべてに代えてでも彼にこんな辛い思いを二度とさせない。死んだとしても、彼の最後を見届けてあげたい。死ぬのが怖い。周りにこれ以上の喪失を味わってほしくない。彼のせいで私の人生が不幸になったなんて言わせない。私までも死んでしまったら、二人の間にあった愛情も思い出も全てなかったことになるのが耐えられない。

    私は死にたい。死にたい理由がたくさんある。彼のいない世界にはなんの意味もない。毎朝彼がいない1日を迎えるのが苦しい。元々ずっと死にたかった人生が彼と出会ったことで初めて未来が楽しみになったんだ。私が死んでも彼は生き返らないけど、この苦しみは終わる。もしかしたら私の何かが彼を苦しめたのかもしれない、そう思うと自分が憎くて仕方がない。返してと四六時中泣き叫びたくなるほど寂しい。心臓が痛くてうるさい。食べ物が重い。眠れない。彼との思い出に溢れかえっているこの世界のすべてが痛い。外に出たくない。人と話したくない。私に生きる力を与えてくれた愛しい時間が今ではすべて拷問のように苦しい。

    いつまで生きられるのかわからない。明日死ぬかもしれない。来月、来年、10年後、20年後、おばあちゃんになるまで生きるかもしれない。その時彼が生きているのかもわからない。ただ自分が納得できる時まではなんとしてでも生きたいから、今は少しでも長く生きられるようにあらゆる手を使う。これがその手段の一つです。文章なんかじゃない、汚物です。食あたりをした時ゲロを吐けばスッキリするように、私は耐え難い気持ちを発散するために文字を濫用しています。碌に頭で考えずに指を動かして、湧き出た言葉をほぼそのまま皿に載せただけのナマモノです。こんなものを料理と呼ぶのは食に対する冒涜に違いない。

    どうしても辛い時の対処法の一つとして、完全に当てはまる訳では無いけどグリーフケアの動画を見ます。あいまいな喪失に関する動画は少ないから、本を読むしかないが体力が持たずに葉っぱを食べるカタツモリのようなもどかしい速度で噛み砕いている。動画の内容よりも、コメント欄で自分の経験について語っている人達を見てる方が苦しみが和らぐ。家族が失踪した人のインタビューやブログを読むのも同じことです。現実で外を歩けば、家族がそばにいて幸せそうな人間をみると私は心底羨ましくて泣きたくなり、また虚しくなります。そんな当たり前で幸福な日常が自分にも確かにあったことが、嫌というほど鮮明に覚えているからです。自分の心を守るために、外に出ることも人に触れることも極力避けて引きこもっています。彼を失って一丁前に孤独を感じていても、やはり人に触れる方が百倍怖いのです。ネットで自分と似た境遇の人間を見つけては、喋ったこともない知りもしない人の悲しみに勝手に共感して生きながらえているパラサイトです。パラサイトでも死体よりはマシなんです。だから他の誰かがいつか私の文章をみて、同じように救われてほしい気持ちが一割、私自身が少しでも生きながらえればいいという気持ちが九割で書いています。ふと人に見られるのが嫌だと思ったらすぐに消します。これは全て私が生きながらえるための利己的な行為です。なんなら、彼に生きてほしいと思う気持ちですらそうです。自死したいと度々思っていた人生だからわかります。私が彼に生きてほしいと思う気持ちすらただのわがままであり、同時に生涯を約束した愛おしい夫に向ける極々自然な感情でもあります。

    少し疲れたので終わります。