すべての死は他殺である

 絶望名言というNHKのラジオコーナーが書籍化された際の、そのうちの一節の題名が「すべての死は他殺である」。私はこれにひどく感銘を受けた。

 今まで死にたい、自殺したいと思って、自身の弱さや生来の気質によるものだとばかり考えていた。しかし、私を自殺したいと思わせた環境が、出来事が、私を殺したとも考えられる。なるほど、自責と他責、両方の観点が成り立つ。

 自責の観点から考えて、私自身の考え方や物事の受け取り方が自分を死に追いやったとする。それもさらに大元を追求すれば、私という人間を構成する遺伝子や環境が、やはり他者から与えられたものであり、それは他責として成り立たないわけでもない。

 他責の観点から考えて、与えられた環境や遺伝子が私を死に追いやったとする。ここで環境と遺伝子を与えられた私とは異なる人物が存在し、仮にわたしとする。わたしが私と同じように希死念慮に苛まれるかといえば、その限りではない。つまり、結局は私自身の何かが生き物として誤作動を起こしていて、自責に辿り着く。 

 結局、他殺か自殺かにこだわる必要性はあるのだろうか。人間関係において、100%どちらかが悪いということがないように、この世に存在するすべての苦しみは他責と自責の観点から見ることができる。9:1か、6:4か、はたまた5:5か、追求する意味はあるのだろうか。

 建設的な見方をすれば、希死念慮を解消する手がかりになるなら、ある。ならないなら、ない。もしくは、ひとまず割合はともかく両方悪いと決めつけた上で、両方から手がかりを探すのが合理的なのではなかろうか。それらを一つ一つ検証する気力があるかどうかが難題。苦しみに弱っている人は自分を救えない、しかし救わなければずっと苦しいまま。矛盾。

 しかし、他責の観点があると知るだけで、ずっと自責に苦しまれている私にとっては幾分か気軽になる。なるほど、なぜ私を殺すのかと世界を責めてもいいのか。自責のみで構成された世界よりかは、随分楽だ。自責を投げ捨てるつもりはないから、両方の見方に同じぐらいの重みを置くように心がけるから、どうか他責にみっともなくすがる弱々しい私を許してほしい。

 

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