もはや自分は、昔と同じような自分として生きてはいけないという現実を、常に突きつけられている。長い間、美しい絵が描ければ、生きられるのではないかという推測を抱えていた。どんなに辛い出来事があっても、自分が心酔できるほど美しい絵を描く能力さえあれば、どうでもよく思えるのではないか。上司に叱られても、同僚と仲良くなくとも、病気に苦しんでも、いつかまた絵を描いてうっとりする時間がやってくると思えば、耐えられるのではないか。
最初は大人びた、保身的な考え方から、絵は趣味にして技術職を目指した。中途半端にうまく勉強できていて、母親にも受け入れられやすい、自分も嫌いではない食い扶持を作り、その余暇で絵を生きがいに楽しむ。ある意味、生きる時間をよりかけているのは技術職の方であっても、本当に自分にとって大切なのは絵の方であった。仕事にすれば、稼ぎなくて辞める事はあるが、趣味なら飽きたといったような、自分の都合以外で辞める理由はない。辞める理由を消すために、ずっと続けられるように趣味にした。
しかし私は不器用で体力のない人間だった。その上、技術職というのは、若かりし頃私が思ったよりも遥かに負担の重い仕事でもあった。また、失敗すれば今までの母の投資が無駄になる、また実家で暮らさなければいけなくなるというストレスからどんどん精神的に疲弊した。絵など一切描けなかった。
うつ病をきっかけに目指すのを辞めた後、徐々に回復した私は、密かにイラストレーターになりたいと考えていた。食いつないでいくためにフリーターを続けながら絵の勉強をして、今まで献身的に支えてくれた夫を安心させたかった。自分も稼いで、いい生活をさせたかった。
彼を失ってから、世の中のすべてがどうでも良くなった。しかしどんなに痛烈な感情であったとしても、時間がたてば変化する。そのうち、彼に対する怒りと一人で逃げたい必死な思いから、いまのこの時間を利用して、絵を勉強して金を稼いで、いつか離婚状を叩きつけて一人で生きていこうとした。長く続かなかった。絵を描いていくうちに、彼を失ったこの世界で、どうして私は顔のパーツの位置や体の奥行き、線の歪みを気にして何時間も手を動かしているのか、バカバカしくなった。大切なことなのに、大好きなことなのに、とてつもなく無意味に感じた。ぐちゃぐちゃな顔でも、美しい顔でも、彼は帰ってこない。どこにもいない。
それでも、では今日から一切絵を描くなと言われれば寂しい。私はまだ絵が好きだった。しかしそれ以上に、彼を愛していた。なんてバカな。自分を一人置き去りにした無責任な、ろくでもない男に、いつまでこだわっているのか。それでも愛している。私を死に追いやるほど深く傷つけたのも、共に夢のように幸せな日々を過ごしたのも、過去に死の淵から救い出したのも彼だった。例えいつか別れることになっても、もう一度顔を見てこどばを交わしたい。生きていてほしい。
おそらく私はもうイラストレーターにはなれない。少なくとも、自分が思い描いた形ではなれない。というのも、職業として目指せると思った主な理由は需要に応えられると思ったからであって、もうそれができなくなってしまった。
仕事というのは、自身のスキリで需要に応える代わりに報酬をいただく。例え歴史に残るほどの才幹を持っていても、生きているうちに市場の需要に応えられなければ金は稼げない、だからゴッホは生涯売れなかった。私は絵を描く行為そのものが好きだったから、たとえ興味がなくとも、描けと言われればなんでもある程度うまみを見出して描けると思った。絵を書いて金がもらえるのだから、なんでも喜んで描くに決まっている。
前述のとおり私は、絵を書いていても味気なく無意味だと感じた。だけど、描いていて面白い絵、描きたい絵もあった。それは、今の自分の心境を表すオリジナルな絵のみだった。つまりもう、何を描いてもうまみを見いだせる私ではないんだ。むしろ、ほとんどのモチーフに意味を見いだせない。美男美女のイラスト、エロのイラストは売れるけど、鬱屈としたイラストが生計をたてられるほど稼げるとは思えない。そもそも、生きていきたいと思えるかどうかも怪しいのに、将来困らないようにスキルアップしようと、金を稼いで生きることを目標としているのが間違いなんだ。
常に大切な人が失踪したという現実が、頭の奥で泣き喚いている。肩越しに私の生き様を眺めて嘲笑している。いつか彼が帰ってきたら、普通の世界に戻れるかもしれないという可能性に辿り着いても、おそらく叶わないと感じた。もう地獄の入口に立って、下を見てしまったんだ。普通に生活しているだけで、大切な家族が急に消えることがある世界なのだと、知ってしまったんだ。最愛の人が生死不明のまま一ヶ月、一年、十年、一生待ち続ける地獄のような人生があるのだと。
それすらも、本当のどん底ではない、常に更に深い地獄が存在する。今の私の想像ですらも遥かに越える過酷で耐え難い現実は、この世の至る所に蔓延っているのだと、私の見えない隅々に行き届いているのだということを身に沁みて知ってしまったんだ。テレビのニュースも、遠い過去の歴史に存在する惨劇も、すべて他人事のように思えなくなった。ただの物語ではない、一時の感情でもない。知った時にだけ憤りを感じたり泣いたり、その後代わり映えのない日常に戻るような刹那的な情緒ではない。すべて生きた血肉の通った絶望と苦しみであった。
助けなければいけない、救われなければいけない、目をそらすことができない。私も、みんなも、生きる苦しみを強いられたすべての人を。今の私では、私自身を助けてあげることすらままならなくて、いつ死んでもおかしくない。だからお金を稼ぐことよりも、他人を助けることよりも、人として自分を救えるようにもがくしかない。
私は今でもアニメ、漫画、ラノベの類が大好きだ。長年私の生きる意味、生きがいとなってくれた、素晴らしい世界だ。映画、小説、絵画等と同じように、一つの媒体に過ぎないと思っているから、既成概念しか頭にない人達が嫌だった。ヘルシングとらきすたが同一であると言っているようなものだ。しかし深く知らない人たちにとっては、一番広く伝わっている印象しかないのも無理はない。責めたくはないし、むしろそれを期に灰羽連盟やソ・ラ・ノ・ヲ・トなどを勧めるべきだ。ついでにらきすたも好きになってくれれば完璧だ。そこまでわかっているつもりでも、どうしても憤りを感じてしまうのはやはり好きだからだ。
絵を描く事だって好きだ。だけど、もう彼らには今の私を救えないという事実に何度も直面する。とても寂しいことだ。手慰めとして、つかの間の現実逃避のような休息を、安らぎをもたらしてくれるけど、根本的な救済が得られない。深い湖の表面に漂う浮草しか取り除けない。不要ではない。むしろこのような安らぎを排除し、一刻一秒すべて重苦しい現実にとらわれているようでは、とうとう気が狂ってしまう。病を治療してくれるわけではないが、患っている間すこしでも苦しみを取り除いてくれるというのは、なんともありがたい。
なにが私を救ってくれるのか、ずっと考えてきた。今最も可能性を感じているのは文学だけど、疑念と呼んでいいのかさえ曖昧な、心もとないほどにかすかな信頼しかない。それでも、今のところ可能性を感じているのは、群を抜いて文学でしかない。
哲学か、心理学か、やりがいのある仕事や出会いか、はたまた今までの人生で遭遇したことのない何か、思いもつかない何かなのかわからない。見つけられるほどの気力すらない。それでも、少なくとも怪しい宗教の類ではないことは確かだ。今の生活で自分が狂っているように感じる瞬間が多々あったが、この程度の判断ができるほどの正気はあるのかもしれない。
人生で好きなものを振り返ってみると、もしかしたら私は媒体問わず、物語や思想に救われているのかもしれない。それが今の自分にとっては受け付けられない、心に届かない媒体が増えてきたのではないかと思うと、やはり寂しい。そういえば、逆に昔はさほど刺さらなかったクラシック音楽の良さがわかるようになってきた。別れと出会いがある。
絵も文字も、まだ別れるときではない。だけどそんな日も、いつかは来るのかもしれない。そう思うほど、自分がいま何者なのか、これからどう変化するのか、何一つ見当がつかない。
本当はわかっているんだ。何が私を救えるのかなんて、決まっている。彼なんだ。だけど彼はいない。だから見苦しく惨めに、あるものにすがりつくしかないんだ。