彼がいなくなったあとに幾多数多の苦しい感情を経験したが、その中でも一番私を死に至らしめるのは罪悪感。私のなにかが彼を苦しめ、それが結果的に彼という人間の命が失われることに繋がったのではないかと考えるだけで、自分に対する憎しみから殺したくなる。私がこの世の何よりも愛したただ一人の彼。独自の考え、好き嫌い、理想や夢を持つ一つの鮮明な命が私のせいで失われたのか。私が存在したために失われたのか。あまりにも憎い。腸を撒き散らしながら小汚い道端で死んでほしい。
行方不明というのは結局生きている可能性も死んでいる可能性もある、それ以上でもそれ以下でもない。故にまだ自分を説得できる。まだ彼のためにできることがあるから生き延びるべき。彼が生きていると信じることで少しでも生きながらえるのなら信じるべき。このようなロジックで自分を説得できる。どう足掻いても苦しいのは変わらないけど、少なくとも今のところ希死念慮を和らぐことはできた。
彼は絶対にまだ生きている。そして生きている限りいつか帰ってくる。息苦しくなるたびにそう念じることでなんとか最低限生活を送れている。亡くなっている可能性を否定しているわけではなく、生きている可能性を忘れないため、信じたいという気持ちを忘れないために念じている。もう二人のために生きてくれるかはわからないけど、それでも自分の幸せのために生きてくれると信じたい。彼は昔、私がもしいなくなったら死ぬことはできないが、生きることもできずに屍のようにただ存在し続けるのだと言っていた。それならまだ生きているのではないかと思える。でも、私がいなければだめだと言っていた彼が、自ら丁寧に連絡の手段や行き先の手がかりを全部きれいに消していなくなったのだから、正直今となっては昔の記憶も交わした言葉もすべて信憑性に欠ける。いざという時自分を慰めるために多少は役は立つかもしれないがね。
どれだけ真実に近づいた推論かはわからないけど、私は彼が命を絶つならおそらく自責の念や未来に対する絶望からではないかと怯えている。私達が知り合った間の出来事から考えると、彼は日本で暮らせなくなることと私を傷つけたことで一番精神的に苦しむ。自分がしたことの大きさを後になって耐えられなくなり、また落ち着いた頃に調べてみると五年以上も上陸禁止期間があることに絶望しているのではないか。それなのにビザが切れてもパスポートを家に置き去りにしたままオーバーステイになり、何度声をかけても平気だと誤魔化し続けた上で急に家出をして行方不明になるのだから、なんとおバカな人なのだろうと呆れる時がある。もし日本に少しでも長く滞在するために雲隠れしているのなら、そのために私をここまで苦しめたのかと怒りが湧いてくる。それでも彼を死なせてしまったかもしれないという罪悪感に比べれば羽のように軽い。
人と愛し合うということは、その人を活かすこともできれば殺すこともできる。人の命に責任を持つことだと、バカなことに夫が失踪してから気付いた。彼と結婚する際に、彼の人生に責任を持つ、彼を幸せにするためにできることは何でもする覚悟はあった。でも、彼の命が私のせいで失われるかもとは思いもしなかった。二人は間違いなく幸せだったという確信があったから、私の存在が彼を苦しめるとは思いもしなかった。この世の他の何かが彼を苦しめて、私が精一杯彼を助けるという構図しか頭になかった。
私は自己肯定感の低さから、付き合い始めた当初からかなり二人の関係に渋っていた。彼のことが大好きだったけど、私では彼を幸せにできないかもしれないと、お互いに少しずつ慎重に関係を進めようとしていた。むしろ彼のほうが絶対大丈夫、俺は〇〇と一緒にいるのが幸せなんだと何度も念押しをされて今に至った。だからこそ余計に衝撃だった。自分は正しかったのだと思ってしまう。私には人を、彼を幸せにできる能力がなかった。本人に強く押されたとは言え、もっともっと主張すべきだったと悔やんでしまう。私がいることで誰かを傷つけてしまうなら、一生誰にも触れずに静かに死んでしまいたい、そう願う人間だった。彼共に過ごしたことで自分は誰かを幸せにできると思うようになったが、また昔に逆戻りしてしまう。前よりもひどくなってしまう。彼が生きて帰ってこれたとしても、私にはもう彼を幸せにできる自信が何一つないから別れたいという考えに辿り着く。これ以上何かしらの形で彼を傷つけるのが耐えられない。その可能性を受け入れるくらいなら、別れたい。
しかし同時に、人を愛するということは、相手を殺してしまう可能性をも背負うということではないかと思ってしまう。実際彼の家出により私が自殺する可能性が非常に高くになっているのだから、お互い様だ。彼が私を殺し、私が彼を殺す。愛し合うことは、殺し合うことでもあるのだろうか。あなたのためなら人殺しになってもいいし、あなたに殺されてもいい。そんな歪なものを、愛情と呼べるのか。もっと清らかで、爽やかな愛情が存在する事は知っている。だけど、自身の何かが相手を死に至らしてしまったかもしれない、そんな状況で爽やかな愛情など生まれるのだろうか?相手は自分を許してくれる、今もなお自分の幸せを願っていると信じて、罪悪感を抱かず生き続けるということか?老死や病死などの自然現象ではなく、自死でもそれが自分の勝手な願望ではなく相手の望みだと言えるのか?
人間社会に求められていることを考えると、死人に口なしと言う状況なら、生きている人が生き続けられるように都合の良い解釈を選んでほしいのだろう。だけど私はどうしても罪悪感を手放せない。一生背負っていくか、それによって命を失うことが贖罪のように思える。苦行僧のような人生が悪いとは思わない。むしろ彼のために一生を捧げられるなら、それもまた一つの愛情の形ではないか。彼への愛情を失うよりは、よっぽど寂しくない人生ではないか。ある意味、やはり自分に都合のいいように生きているのかもしれない。