主人の失踪が苦しいのは、目の前にある喪失だけでなく、彼と過ごした幸せな過去ですらも否定されてしまうことが一因を担っている。アニメを一緒に観てゲラゲラ笑って盛り上がったり、ゲームで真剣勝負をしてお互いムキになっては、終わったあとに楽しかったと言い合ったり、念願の旅行先でへとへとになりながらも満喫して穏やかな時間を過ごした。時々二人でスーパーのお惣菜を買って晩酌して、午後に彼が趣味で淹れているコーヒーでデザートを楽しみ、静かな会話の合間にふと幸せだと言い合うような日々だった。喧嘩をしてすれ違ったり、大変な目にあった時もあったけど、二人で支え合って乗り越えてきた。辛い思い出がすべて霞んで見えるぐらい圧倒的に幸せだった。ずっと彼もそう感じていたと堅固な確信を持っていたが、今ではほろほろ崩れた虚しい残骸を眺めるばかり。
朝から晩までずっと共に過ごしてきたこの三年間。平穏で至福に満ちた二人の世界は寿命が尽きるまで続くと信じて疑わなかった。いつか事故に遭うかも、病気になるかもと不安に駆られたことはあっても、結婚してたった半年でこのような終止符を打つとは思いもしなかった。私にとって彼は、朝になったら太陽が昇り、春になったら桜が舞うのと同じように、疑うのすらバカバカしいほど真隣にいて当たり前の存在でした。私の半身のような、あるいはもう一人の自分のような彼。そんな彼が想像だにしない苦しみを私に与え、二人で必死に努力して築き上げた生活を自らの手で葬った。その事実が私という人間のすべてを震撼する。
もはや、この世で信じられるものは何もない。確かなものなど一つもないと感じてしまう。諸行無常という言葉が後味の悪いスープのように私の体に染み入る。愛着を手放したほうが楽だとわかっていても、はいそうですかで手放せる人はいるのだろうか。少なくとも今のわたしには決してできない。仏陀にも僧侶にもなれない。
今まで交わした数え切れない約束と言葉。二人で一緒に生きていこう。一生一緒にいよう。この世でたった二人の家族として、支え合っていこう。金婚になったらどう祝おう。老後はどうやって過ごそう。何歳になってもきっとまだバカップルのように、どちらのほうが好きか言い争っているに違いない。今まで生きてくれてありがとう。出会ってくれてありがとう。あなたは奇跡。
失踪したわずか数日前に、彼はいつものように私を抱きしめて〇〇(私)は奇跡だと言い、私が当たり前だよ、私にとってのあなたもそうだよと返していた。そんなたくさんの、私にとってはかけがえのない宝物だった言葉がすべて刃となって心を切り刻む。全て嘘だったのかと疑わなければいけなくなって、彼を疑おうとする自分が嫌なのに否定ができない。信じてあげられない私も、信じる理由を奪った彼も嫌いになってしまいそうで、どうしても嫌気が差す。
今まで彼がたくさん努力して、たくさん愛情を注いでくれたことはすべてはっきり覚えている。私も同じように彼に愛情を注ぎ、何度も感謝の言葉を交わしてきた。今でもスマホには彼が幸せそうに笑っている写真が山積みになっている。だからこそ、一言も相談されずに捨てられたことが信じられないんだ。そんな素っ頓狂なことが起きるこの世界が信じられないんだ。
二人が当たり前のように相思相愛だった世界は霧散したんだ。私は、彼からの愛情を失うのも、彼に対する愛情を失うのも怖い。たとえ彼がそばにいなくとも、私は彼のために生きているのだと信じたい。彼がそばにいなくとも、愛されなくとも、せめて彼に対する愛情だけでも心の中で生き続けてほしい。それすらも失うのはあまりにも寂しいから。だけど裏切られたと感じる自分の心が戸惑う。時間が経つにつれ、生きているのならなぜまだ帰ってこないのかという怒りと、死んでいるのではないかという絶望が増していく。
彼にとってこれは必要なことだった、ただそれだけのことだと信じたい。悪意によってなされたわけではなく、愛情を失ったわけでもなく、今の彼は自死を検討するほどひどく弱っていて、失踪することは彼にとって延命する手段だった。私一人ではどうしてもその理由にはたどり着けないけど、命を絶つことはとても難しくて恐ろしいことなんだ。もし怖がりな彼が本当に自死を選んだなら、それは彼にとって抗えないほどの救いだったのかもしれない。私が必死に頑張ってもなってあげられなかった救いを、彼はそこで見出したのかもしれない。例えその選択がどんなに私を傷つけても、許して一人でも生き続けるべきだろうか。
正直、全くできる気がしない。とてもじゃないけど、私が足りないばかりに彼を死なせてしまったのではないかという罪悪感を抱えて生きられない。彼を失った未来で生きたくない。彼がいなくなってから、幸せを感じることがなくなった。瞬間的に楽しい、嬉しいと感じても、幸せは決してない。今まで生きる糧となってくれた趣味や好物も、すべて無価値なものに感じる時がある。彼と一緒に楽しんだものは無価値どころか凶器となる。もっと長く生きれば、いつか痛まなくなるだろうか。幸せだと感じられる日が来るだろうか。それでもきっとずっと彼に会えなくて寂しい。そんな空気が針でできているような世界で、なぜ寿命が尽きるまで数十年と生きることを強いられるのだろうか。
先日私は彼に会えない寂しさに耐えきれず、とうとう今まで避けてきた彼の写真と動画を観てしまった。声が思っていた以上に高くて、もう私は彼の声もちゃんと思い出せなくなったのかとショックを受ける。幸せそうに笑う彼の顔を見て、そうだ私たちはこんなにも幸せだったのだと、あの頃の感覚が体に流れ込んできた。懐かしくて震えた。あんなに毎日一緒にいたのに、もう半年も会っていないのかと、不思議とその時初めてしっかりと自覚した。見るたびに胸が痛むのに、私は取り憑かれたように何度も彼の写真をみては、何度も動画を再生した。ひたすら涙を流していると、もう二度と彼に会えないのではないかという確信が根付いてきて、強烈な希死念慮がハンマーのように頭を打ち付けてきた。彼が失踪した直後に経験した食欲と睡眠欲の急な衰退に見舞われた。動悸がやまず、寝ても覚めても何かに追いかけられているような気分だった。数日経って、力尽きてきた頃に徐々に回復してきた時にはホッとした。一層彼の存在を避けるように細心の注意を払うようになった。それでもやはり、いつか寂しさに耐えきれずまた同じ過ちを犯すかもしれないけど、私はそんな自分を仕方ないと許すしかない。
すでに首の皮一枚で繋がっている状態なのに、本当に彼の死が確定してしまった未来を考えるとどこまでも沈む。不確かさからくる終結のない苦しみも、最愛の人を永遠に失う苦しみも、どちらも耐え難い地獄だ。生きているかもしれないというのは祝福でもあり、呪いでもある。もしすでに亡くなっているのなら、私はいち早く知りたいと思う。音沙汰もなく何年も待ち続けるのは考えただけで目が眩む。それでも彼が生きてくれる可能性が少しでもあるなら、できる限り延命して待ってあげたい。せめて、生きてる可能性が極めて低くて、自分の心が納得できるまで待ってあげたい。
昔読んだ自己啓発本にこんな事が書いてあった。過去は変えられず未来のみ変えられると思いがちだが、過去は変えられる。なぜなら、未来によって過去の感じ取り方が変わるから。下積み時代を語る成功者のように、つらい過去も幸せな将来によって輝かしいものとなる。まさにこの理論が、いま私の人生において真逆の最悪な形で行われている。どんなに愛し合った相手でも、裏切られればすべてトラウマとなり、失えばすべて傷となる。彼という存在だけでなく、今までたしかにあった愛情をも失うのがものすごく苦しい。しかし過去は変えられるというのなら、今のこの現実がいつか過去になった時。例えば彼が生きて帰ってこなくとも、いつか私はこの痛みと共存できるのかもしれない。グリーフケアで見かけた言葉は、悲しみを置いて前に進むのではなく共に歩み続ける力を得ること。
過去は何度でもいい方に生まれ変われる。それはきっと一度味わった痛みが無かったことになるわけではなく、もう傷つかれないようにそれらと和解することを意味する。
私は今まで人生で後悔したことがなかった。生きるということは、常に誰も正解を知らないテストを解かされるということを知っていたから。間違えて苦しい思いをしたり、後悔するのが当たり前なんだ。未来に生きる私達が、何も知らなかった過去の自分の選択を責め立てるのはあまりにも理不尽だとわかっている。いついかなる時だって、私達はただその時の自分にできる最善の選択肢を懸命に選んでいるだけ。だから後悔はしても、それで今の自分を痛めつけてはいけない。理屈としては理解していたけど、今回だけはどうしても後悔してしまう。押しつぶされてしまう。石を持ち上げる方法を教わっても、人間に山は持ち上げられないんだ。今はまだ、あまりにも遠く届かなくて、目指そうとするのすら苦しいと感じてしまう。
過去は生まれ変わった。美しい思い出は果てしない悲しみの源となった。世界は葬られた。彼が人生の一部として生きているのが当たり前な、彩りに満ちた幸福な世界はもうどこにもいない。それらの事実から目をそらさずにいられる日まで、やはり生き延びてみようかな。山を見上げるのですら苦しくとも、少しずつ麓まで歩いていくことはできるかもしれない。道半ばで倒れるかもしれない。それでも、床を這ってでも生き延びようとしている自分にありがとうと伝えたい。