他人のために生きたくないけど生かされている

 夫が失踪してからは会話の相手も会う人間も殆どが義母一人になっている。失踪についてはいなくなった次の日には義両親に伝えていたが、義父は実家に滞在して義母が駆けつけてくれた。

 一番衝撃で弱っていた最初の半月は本当に助かっていた。例え日本語がわからなくとも、いろんな手続きを行う際に誰かが黙ってそばにいてくれて、相談相手になってくれるだけで安心感が違ったし、ひとまず生きていこうと思えた。彼女は命の恩人と言っても差し支えない。しかしその後の2,3ヶ月は、逆に彼女がほぼ毎日と言っていいほど泣いていて、都度私が慰めるという形になった。正直かなり負担になっていた。彼女の前でなんとか平然のふりを保たなければいけないのことにも疲弊した。私が少しでも弱音を吐けば、彼女は息子はなんてことをしてしまったんだと私以上に泣きじゃくり苦しむから、次第に元気なフリを続けていた。

 彼女が少しずつ泣くのをやめて、最低限普通に暮らせるようになっても、彼女には私を慰める能力がなかった。私のために一生懸命頑張っているのがわかるから本当に申し訳ないけど、私から見て人を慰めるのが下手だった。逆に私の調子を悪化させてしまうし、最終的にはやはり私にその役割が来る。

 例えば、私がとてもストレスを感じていると伝えると、彼女は何かあれば私が背負うからストレスを感じなくていいと答えた。いやいや、夫が失踪しているのにストレスを感じないわけがないし、他人が肩代わりできるようなものじゃないと怪訝に思いつつ、その無責任な発言に少しイラッとした。態度に出ないように、できるだけ落ち着いてやんわりと伝えた。失踪している夫を見つけることは誰にもできないし、日本語がわからない義母には手続き等ができないわけだから、結局は私が矢面に立たなければいけない。別に肩代わりしてもらいたいわけじゃなく、話を聞いて一緒に背負ってほしいだけだと説明すると、そうだよね、ストレスを感じなくていいなんて嘘だよねと言いながらやはり大泣きして結局私が慰める。また別の時は、言葉に詰まって何も言えずに押し黙る。

 元々人間として違いすぎたというのもあるが、六十代の義母は純粋な善意で私に、「あなた達の世代は私達より甘やかされて育ったから心配」や、「私は息子と三十年の付き合いだったけど、あなたはまだ三年だからそう考えると良い方でしょう」と言う。その発言が生まれたのには私にも一定の責任がある。私はこう言えば傷心している彼女の耳に心地良い言葉になるだろうとわかっていたから、過去に彼女と会話した時に、私がまだ若いからかもしれないけどと謙ったこともあるし、三十年も育ててきた息子が失踪するのがひどく苦しいのは当たり前だと慰めたこともある。だけど彼女には、私の立場や目線から物事を考える能力が欠如していたから、私の発言を素直に鵜呑みにしていただけだ。今までずっとイライラしても堪えていたが、この時は流石に態度に出ていた。しかし彼女の素晴らしいところは、そんな事言われても傷つくだけだと怒りをあらわにしてはっきり伝えると、黙ってもう言わないようにしてくれるところだ。価値観や性格はまるで違うが、人格者だ。母だったら、慰めてやったのになぜそんな事を言うの、なぜ私の気持ち汲み取ってくれないのかと逆ギレされていただろう。

 カウンセラーに過剰適応だと言われた時はハッとした。今までの人生で家族友人が悩んでいるときも、自分がどんなに辛くても必死に隠して、健気に振る舞っては相談に乗っていたから、人を慰めるのがうまくなったのかもしれない。しかし今回の件においてはどうしても一人では抱えきれず、人生で初めてカウンセリングに頼った。本当に頼って良かったと思う。

 働けない私の生活費を肩代わりしてくれる義母のお陰で生きている。それと同時に、自分が大変な状況に置かれている中で行う彼女のメンタルケアに疲弊している。鬱陶しいとすら思う時がある。特に彼女のほうが明らかに調子が悪くて、頻繁に泣いてはいつもしかめっ面で暮らしているのに、しつこいくらいこちらの心配をしてくる時はなんとも報われない気持ちになった。どんなに必死に彼女を心配させないように健気に振る舞って彼女を支えても、まるで割れ物のように扱われているのが腹立たしい。自分より遥かに弱い相手から下に見られているような気分だった。私には弱いものとしてみられたくないプライドがあったのかもしれない。くだらないプライドだ。だけどそのプライドが、結果義母を少しでも支えることに繋がったのなら悪くない。問題はこっちのメンタルが逆に削られ始めていることだ。それでも働くよりかは遥かにマシだろうけど、やはりできれば距離を取りたい。私をみると息子のことを思い出すから、実家にいるほうが考えずにいられると話していた義母にとっても悪い話ではないと思う。

 義母にはよくちゃんと自分の面倒をみて、ちゃんと生活してほしいと言われる。そう言われるたびに、彼を失った苦しみを取り除くこともできないくせに、なんて無責任な言葉をかけるのだろうとイライラしていた。私のためにお前はどんなに苦しくともちゃんと生きろと言われたようなものだ。彼女がいると私は腐ることも泣くことも許されず、無理に元気な仮面を被ることを強いられる。

 私は、彼女のために生きたいとは思えない。彼女の息子と結婚した、その事実を除けば紛れもない他人だ。母が何度も再婚を繰り返していたからか、私は婚姻関係でできた絆の脆弱さを知っている。血の繋がっている父にすら見捨てられ、母に長年苦しめられたのだから、紙一枚で他人になれる関係のなんと浅はかなこと。私にとってこの世で真に心の家族と呼べるのは夫だけだし、彼がいなくなったこの世界で生きる意味になれる人間は一人もいない。唯一まだ可能性があるとするならそれは私自身のためだ。だけど同時に、確実に彼女の存在に生かされている。死ぬことや雲隠れすることが頭をよぎる時、私までいなくなったら彼女があまりにも可哀想だという考えが頭をよぎる。

 結局他人のために生きたいとは思えなくても生かされる。私が住むこの家が建てられたのも、蛇口から暖かい水が出るのも、インターネットが使えてワードプレスでサイトが作れたのも、全て誰かの働きによるものだ。見ず知らずの誰かのためにこの地獄を生きられるかと問われればできないけど、生きている間は必ず他人に生かさている。なんて矛盾だらけな世界なのだろう。苦しまれるのも救われるのも、結局他人。関わらないことはできないけど、関わり方を選ぶことで多少は生きやすくなるのだろうか。

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