私は昔からペシミストで現実主義者だった。常に最悪な結果が起こるだろうと想定して生きてきたからか、それもあってか小さなトラブルで不安になりやすい。また、現実から目を逸らしてはいけないという妙なプライドがあって、学生の頃は現実逃避をしている友人や同級生にイライラして刺々しい言葉をかけていた。成人してから度々申し訳ないことをしたと思っていたが、今はさらにそれを痛感する。
私は、自分が楽観的に考えたり期待した結果傷つくのが怖いから、そういう性格になったのだと思う。自分が100傷つかなくていいように、60ぐらいさきまわりして傷ついておく。その結果どんどん心労が蓄積されていく。小心者でビビリで、なのに責任感が強いからすべて一人でなんとかして抱えようとする。夫が失踪した件において、この性格は私を大きく苦しめた。
私は自分の心が到底受け入れられないような痛みを、無理に喉の奥へと押し込もうとしていた。夫は最悪永遠に音沙汰がないかもしれない、死んでいるかもしれないからそれを常に念頭においておけ、そしていち早く受け入れろと無意識のうちに自分に言い聞かせていた。そして少しでもその可能性を示すような出来事があればなおさら自分を追い詰める。ほらこんな事が起きた、やっぱりもう最悪な結果を受け入れるしかない、早く受け入れろと迫ってくる。未だに目の前の現実すら受け止めきれていない私の心に対してそれは酷刑だった。
本当は彼がもうこの世にいないかもなんて思いたくない。彼が亡くなった世界、二度と帰ってこない世界でも一人で生きていかなければいけないという声に対して、嫌だと心が泣いている。どうして彼がいない世界で生きなければいけないんだ。何故彼がいないこの無意味な世界で苦しいだけの余生を強いられるの。私と出会わなければ、彼は今も元気に暮らしているかもしれないと思うと自分が憎くて仕方がない。なのに声は止まず受け入れて生きろとひたすら呼びかける。それが苦しくて仕方がなかった。
本当は彼がどこかで生きていて、いつか帰ってくるのだと信じたい。頭ではわかっている。彼の状況が全くわからない今、もう命を失っている可能性は当然ある。彼が帰ってこない可能性など存在しない、必ず帰って来ると盲信して現実から目を逸らしているわけではない。
グリーフケアの本を読んでいると、こんなエピソードがあった。妻は亡くした高齢の男性が、妻は旅行に行っていると思って毎日を過ごしている。妻が亡くなったことを忘れたいから、今もどこかで生きていると思いたいから、いつ帰ってきてもいいように生活している。
私は、彼が生きている可能性があるのにもかかわらず、彼は生きていると思うことを自分に許さなかった。しかし、愛する人がすでに亡くなっている場合ですらまだ生きていると思うことを自分に許した人がいたことに衝撃を受けた。そして、私も信じたいと思った。
冷静に考えれば、彼の今の状態がなにもわからない以上、二択においてどちらも同じぐらい可能性があるはずなのに、私はどうして自分をいじめるように悪い方をひたすら選ぶのだろう。どうせ真実を知る術がないのなら、私がどっちを信じても結果が変わらないなら、自分にとって都合の良い方を信じたっていいじゃないか。きっとそれは現実から目を背けずにできることなんだ。
例えば、受験で我が子を応援する親は、何が何でも絶対に落ちないと盲信して応援しているわけではない。ただ受かってほしいと思うから、努力が報われてほしいから、きっと受かるはずだと信じて応援する。その結果どうなろうとも、心の底から信じて全身全霊応援したからこそ納得できる。
もしかしたら夫はすでに亡くなっているかもしれないことは重々承知しています。それでも生きていてほしいから信じて待ち続ける。その方が断然苦しまずに長く生きられる。例え本当に再会できなくとも、自分の心がその結果を受け入れる時間を稼ぐことができて、私は納得するまで彼を待ち続ける事ができる。きっとその方がずっと寂しくない。
最初に彼の失踪が発覚した時、私は塵を積もらせて作った山のような二人の信頼関係が、台風によって巻き上げて散り散りになったところを目撃したような気持ちだった。あまりにも衝撃的な出来事に心が混乱して、もう何を信じたらいいのかわからなくなった。
最低限あなたが無事かどうか知りたい、じゃないととても心配して心を病んでしまうというのは過去に何度も伝えた。深夜にどうしても連絡がつかなくて何回か怒ったことがあった。だからこそ、彼がわざわざ連絡手段をすべて断ってから家出をするのが許せなかった。二人で一緒に日本で生活してきたのに、彼自身ビザが切れたら大変だとすごく心配していたのに、ビザが切れる時期になっても帰ってこないままオーバーステイになって、日本で暮らせないような状況を作り出したのが信じられなかった。深く傷ついた心が信じるのを怖くなった。立派な防衛本能だ。事が起きた直後はもう関わりたくない、いっそ一人ですべて忘れて遠くへ逃げようと何度も思ったことがあった。本気ではなく、もう苦しみたくない、痛い思いをしたくないという傷ついた心からの救援信号だった。
人はなぜ人を疑うのか。それは相手が自分を傷つける人物であるかどうかを判断して、自分を守るためだ。だけど彼は今どこにもいない。私を再度傷つけるなんてことはできない。むしろ、再会して初めてそれができるようになる。本人が目の前にいて、判断材料がたくさんある状況でまた判断すればいい。だったら、今は信じたっていいじゃないか。
五年、十年と長い時が経てば、いつかは自分の人生と彼を待つことを天秤にかけなければ日が来るかもしれない。生きている可能性が限りなく小さかったり、遺体が見つかったり、彼を永遠に失った苦しみに直面しなければいけない場面が来るかもしれない。だけどそれは今じゃない、まだ遠くにあるいつかの話。
いま私は信じたい。彼が生きていて、いつか帰ってくるのだと信じたい。今でも彼は私のことを大切に思っていて、自分の力ではどうしようもない問題を抱えているから家に帰れずにいるのだと信じたい。おそらくこれまでのどんな時よりも彼は弱っていて、今までで一番私を必要としているのかもしれない。心が重苦しい感情でいっぱいいっぱいになっていて、それらと戦いながら生きる事に精一杯なのかもしれない。もし彼が一人で思い詰めた苦しんだ結果が失踪だとするなら、今の彼は自分にとって必要な時間を過ごしていて、自分にとって最良なタイミングで帰ってくると信じて待ってあげたい。いつか帰ってくれるのなら、その時は一生懸命頑張って自分の弱さに立ち向かった彼を許して、生きていてよかったと暖かく迎い入れたい。
私にできることは彼がいつでも帰っていいように家を守ってあげること、生きてあげること、信じてあげること。例えそばにいなくとも、私は彼を愛する手段を持っていることが嬉しい。
何度も二人の今までの絆が踏みにじられた、嘘にされたと感じてズタボロになっていた。しかし例えどんなに怒っていても、いつか夫婦を辞めて恋愛感情がなくなっても、私は彼を愛している。生きていてほしい、幸せになってほしいと願っている。今までたくさん頑張ってくれたこと、助けてくれたことに感謝している。それが、二人の間には確かに深い絆があったことの最大の証拠じゃないか。たった一晩で覆せるものじゃないと私が誰よりも知っているはずなんだ。だからこそ、誰よりも信じてあげなければいけない。むしろ私が信じなくてどうする。もうこの世の中には、二人の絆を知っていて、証明できる人が他に誰もいない。
できるかわからないけど、もしいつか彼が本当にこの世を去っていたら、その時もやはり信じてあげたい。私に対する愛情を失ったからじゃない、私を一人置いていきたかったわけじゃない。彼自身の生きづらさのためか、たくさん思い悩んだ末にどうしようもなく選んでしまった結果だと信じたい。
私の知っている彼なら、きっと耐えられないほどに申し訳ないと思っている。昔私を傷つけてしまったときに泣いて謝っていたのと同じように、自分をひどく責めるだろう。私が彼にそう思っているように、私に幸せに生きてほしいと願っている。私がそのことを誰よりも知っているんだ。だから彼が自分を責めなくていいように許す。もしこの世界にたった一人だけ彼を許す人物がいるなら、それは私であるべきなんだ。
言うは易く行うは難しということを知っている。寂しくて、虚しくて、悲しくて、苦しい日々がポツリと消えたわけではない。きっとこれからどんどん時間が過ぎていく中で、やはり許せない、信じられないと感じる瞬間も現れるだろう。でも今の私はこう考える。あなたへの愛情があるなら、信じる心があるなら、少しだけ胸を張って遠くへ行ける気がする。