彼が家に帰らないのは、それがいまの彼が私に与えられる愛情の限界だから。
私が彼を探さないのは、それがいまの私が彼に与えられる愛情の限界だから。
片方を責めることは、もう片方を責めることにつながる。逆に言えば、片方を許すことは、もう片方を許すことにもつながる。今日、ふとそんな風に考えた。
あれほど私に愛情を注いでくれたのに、どうして私は彼を探しに行ってあげられないだろうと、自分を責めてきた。逆に、なぜ私にこんなひどい仕打ちができるのだと、彼を責めてきた。しかしそれは、過去がどうであれ、今の自分の状態で相手に与えられる愛情の限界がこれだった、これに尽きるのではないかと思い始めた。
私が彼を探さないことに苦しんでいるのは、先述した罪悪感だけではなく、彼を昔のように無条件に、手放しに愛せない自分に苦しさを覚えている部分がある。彼を深く愛する人間として生涯を過ごすことにすこしも疑いを持たなかったからこそ、失われた愛情に悲しみ、自身のあり方を見失っている。
彼に生きていてほしいと切に願っている。少しでもその可能性を高められるのなら見つけ出してあげるべきだと考えるときもある。しかし、それと同時に、自分の意志から私を遠ざけている人を追いかけ回すような行為は私の人としての信条に反していた。探しに行きたくないという気持ちは、無責任に全て放り出した彼に対する怒りもあるし、今の自分が色々と限界を迎えていて、まともに生活をするのがやっとという状態も加味している。
遠ざけておいたものの、本当は家族からの言葉やアプローチを待っているのかもしれないが、手がかりが一つもない中で、今の私には宝くじを当てるような確率にすがって、彼を探し回るほどの気力も愛情もない。苦々しい現実である。
時々、生きてほしいと願うことすら、私のワガママではないかと思う。愛する人に対して持つ極めて自然な感情とは言え、それを無理に強いることはできない。彼が何にここまで絶望したか、何故私とともに生きてくれないのか、未だに納得のいく答えを見つけていないが、それは私の納得を要する出来事ではない。
彼が生きることのなにかに絶望して、死を選んだのなら、それを許すことも愛情なのだろう。しかし、その愛情を私が彼に対して持てるかどうかも、また誰かの納得を要する出来事ではない。
疲れた。たくさん考えて、言葉にする日は、決まって疲れる。最近は前のように眠れない日々が一転して、逆に仮眠し始めている。睡眠時間が10時間は下らなくなって、おおよそ無意識のうちに二度寝、三度寝を繰り返している気がする。それでも、眠れないよりかはマシだ。